第11章 「世界」を作るのは私である

プロローグで、ひとつの言葉を提示して、説明を最終章まで取っておきました。「『世界』を作るのは私である」、というあれです。とある哲学書のなかにあった一節です。誰の、何の本かは、ここでも明示しません。出典の話より、あなたがこの一節をどう受け取るか、のほうが、本書にとっては大事だと思っているからです。気になる人は、いつか自分でその一節と出会いに行ってもいいですし、出会わなくてもいい。出会わずに、自分なりに使い続けてくれてもいいです。

僕がこの一節に最初に出会ったとき、正直、意味がよく分かりませんでした。「世界は私が作っている」、そう言われても、僕の周りには、僕とは独立に存在しているとしか思えないものがたくさんあります。建物がある。空がある。他人がいる。ニュースが流れる。社会制度がある。これらは、僕が作ったわけではありません。それでも、この一節はずっと頭の片隅に居座り続けました。たぶん、ぴったり腑に落ちないからこそ、居座ったのだと思います。腑に落ちる言葉はすぐに通り抜けますが、腑に落ちない言葉はその場に居残って、何かのきっかけでまた立ち上がってきます。居残っているうちに、だんだん、意味の輪郭が変わっていきました。いまこの本の最終章を書く段階で、僕がこの一節をどう読んでいるかを、ここに書いてみます。

「世界」と一口に言っても、物理的な世界と、僕たちが見ている世界は、別のものです。物理的な世界は、僕たちが見ようと見まいと、そこにあります。建物は建っていますし、空は青く、地球は自転しています。これは、僕が作ったものではありません。当たり前です。ただし、僕たちが日々生きているのは、物理的な世界そのものではなくて、僕たちが見ている世界のほうです。物理的な世界には、信じられないほどの量の情報が含まれています。空の雲の形、街路樹の葉っぱの一枚一枚、すれ違う人の表情、聞こえてくる雑音、足元の段差。僕たちの脳は、そのすべてを処理することはできません。だから、無意識に、ものすごい量の情報を捨てています。

捨てるか拾うかは、何で決まっているか。これが、あなたがこれまで蒔いてきた種、積んできた元本、そしてあなたが立てている問いによって、けっこう決まっているんです。FPS(シューティングゲーム)を長くやっている人は、街を歩いていて、勝手に「角」が目に入ってきます。そこに敵が潜んでいるかもしれない、という FPS の経験が、街の見え方を変えています。デザインを長くやっている人は、看板を見たときに、文字組のバランスや、配色の良し悪しが、勝手に目に入ってきます。研究を長くやっている人は、誰かが何気なく言った一言を聞いて、「これ、論文の問いになるな」と勝手に思ってしまいます。これらは、同じ街、同じ会話を、別の人がまったく違うものとして経験している、ということを示しています。物理的には同じ街なのに、見えている世界が違う。これが、「『世界』を作るのは私である」の、僕なりの読み方です。物理的な世界は、確かに僕の外にあるんですが、僕が日々生きている「見えている世界」のほうは、僕の見方によって作られている。何を見るか、どう見るか、何を見ないか。これらの判断が、僕にとっての「世界」そのものを規定している、と言ってもいいかもしれません。

これを、あなたのいる場所、つまり大学に当てはめてみます。あなたが通っている大学。同じ建物、同じ授業、同じ先生のもとに、あなたとあなたのクラスメイトが座っています。物理的な環境は、ほぼ同じです。でも、見えている世界は、ぜんぜん違うんです。ある学生にとって、その授業は「単位を取るために我慢する90分」です。別の学生にとっては「自分の興味と運よく重なった、面白い90分」です。さらに別の学生にとっては「先生の言葉のなかから、自分の問いになりそうなものを探す90分」です。ある学生にとって、その先生は「淡々と話す、特に印象のない教員」です。別の学生にとっては「専門の領域では世界レベルの研究者」です。さらに別の学生にとっては「研究室に入って卒研を見てもらいたいメンター候補」です。これらは、その学生たちの元本と、立てている問いの違いによって生まれてきます。専門の知識を少しでも持っていれば、先生の発言の重みが分かります。「自分はこういう問いを持っている」と意識していれば、その問いに引っかかる発言だけが、ハイライトされて聞こえてきます。何も持たずに座っていると、世界はぼんやりとしか見えません。元本があるほど、問いがあるほど、世界はくっきりと、解像度高く、見えてきます。これは、お金持ちが世界を高解像度で見る、という話ではありません。あなたが自分で蒔いた種、自分で立てた問いが、そのままあなたの世界の解像度を作る、という話です。

この本の最初のほうで、偏差値というスナップショットの話をしました。偏差値で並ばせる視点で世界を見れば、世界はそういう風に見えます。誰がどの大学にいるか、誰がどの会社に入ったか、誰の年収がいくらか、誰のフォロワーが何人か。数字で並ぶ序列のなかで、自分がどこに立つかが、世界そのものになります。この見方をしていると、世界はけっこう冷たい場所に見えます。なぜなら、序列のなかでは、ほとんどの人が「上位ではない誰か」だからです。上を見れば自分より上がいる。下を見れば自分より下がいる。両方を見ると、自分のいる場所はちょっとだけ広い灰色の中盤になります。世界は、勝つか負けるかの場所として、見えてきます。別の視点で世界を見ることもできます。複利、種まき、問いを立てる、自分の選択として引き受ける、という視点で世界を見ると、目の前の出来事のひとつひとつが、将来の自分の元本に繋がるかもしれない種として見えはじめます。退屈な授業も、面白い場面が混じっているかもしれない。何気ない先輩の言葉も、半年後に効いてくるかもしれない。誰にも頼まれていない作業も、5年後に思いもよらない場所で繋がるかもしれない。これは保証された未来ではありません。保証はないけれど、その可能性のなかで世界を見ている、という状態です。

ここで気づいてもらえると嬉しいのは、どっちの世界も、物理的には同じ世界だ、ということです。同じ大学、同じ授業、同じ街、同じ友人がそこにあります。違うのは、あなたの見方だけ。そして、見方は、あなたが選べます。これが「『世界』を作るのは私である」の、僕がいちばん大事だと思っている含意です。世界の見方は、あなたが選べる。これは、ふたつの読み方ができる言葉です。ひとつは、希望のある読み方です。いまの世界を「冷たくてつまらない場所」として見ているとしても、建物や授業や先生を変えなくても、見方が変われば同じ世界が別の手触りで立ち上がってくる、という読み方です。もうひとつは、すこし厳しい読み方です。「冷たくてつまらない世界」を見続けているとしたら、それはあなたがそういう見方を選んでいることにもなる、という読み方です。「親が」「先生が」「大学が」「世の中が」、これらはある程度は事実でも、その世界のなかで何を見るかを選ぶのは、最終的にはあなたです。僕としては、この言葉を「あなたが悪い」の正当化に使うのは好きじゃありません。むしろ、「あなたにも見方は変えられる」と思い出させるために使う言葉だと思っています。どちらの読み方を採るかは、また、あなたが決めることです。

最終章のなかに、もうひとつだけ置いておきたい話があります。「自分を測る装置を持つ」という話です。

「測る」と書きましたが、これは数値で評価するための装置のつもりではありません。プロローグで書いた庭の比喩を借りれば、庭を観察するための装置、というほうが近いです。庭の世話をするには、いまの庭の様子を、ちゃんと見ていないといけません。土の状態、葉の色、虫がついていないか、何が育っていて何が枯れかかっているか。観察しないで世話を続けると、ピントがずれた手のかけ方になります。同じことが、自分自身についても言えると思っています。

本書のなかで書いてきた、仕組みも、仲間も、複利の方向も、ぜんぶ定期的に見直しが必要なものでした。仕組みは3か月か半年に一度組み直す。複利は方向を間違えていないかをときどき点検する。仲間も、関係の質は放っておくと変わっていく。これらに共通するのは、定期的に立ち止まって、自分の現在地と、これまでとの差分を見る、という作業です。

ここで、ちょっとした問題があります。「変わった」ことに自分で気づくのは、意外と難しいんです。なぜかというと、変化はゆっくり起きるからです。鏡を毎日見ている人ほど、自分の老化に気づきにくい、というのと同じ構造で、自分の内面の変化も、毎日の自分には見えません。気づいたときには、もう何年も経っています。

だから、過去の自分を残しておく必要があります。後から振り返って、「あの頃の自分はこう考えていた」「いまの自分とどこが違う」と比較できる素材を、意図的に蓄積しておく、ということです。これを、本書では「自分を測る装置」と呼んでみたいと思います。

具体的には、いくつかの形があります。ひとつは日記。毎日でなくていいです。週に一回でも、月に一回でもいい。自分がいま何を考えているか、何に悩んでいるか、何が嬉しかったか、を書き留めておく。これを5年続けると、5年前の自分のスナップショットが、手元に残ります。僕は20歳の頃、ノートを習慣的に取っていました。授業のノートではなくて、考えごとのノートです。いまでも、ときどき開きます。「20歳の僕、こんなこと考えていたんだな」と思うことがあります。狭い視野で世界を見ていたな、と思うこともあれば、20歳のほうが大事なことに気づいていたな、と思うこともあります。どちらにせよ、当時の自分の思考に直接アクセスできるのは、書いたものだけです。記憶は当てにならない、というのが、過去の自分との往復で僕が学んだことのひとつです。

ふたつめは、人と話して残すこと。自分の考えを誰かに話すと、その人がリアクションをくれます。それを通じて、自分の輪郭が、外から見えてきます。日記のように残ってはくれませんが、「自分はこう考えているらしい」という気づきが、起こりやすい場面です。仲間という関係は、この意味でも、自分を測る装置の一部として機能します。

みっつめは、文章を書くこと。日記より整理度を上げて、人に読まれることを少し意識して書く。ブログ、レポート、研究の文章、何でも構いません。書く過程で、自分のなかで何かが揃います。書く前と書いた後で、自分のなかで何かが変わります。これも自分を観察する作業の、ひとつの形です。

よっつめは、長期のプロジェクトに取り組むこと。卒業論文、研究、創作、起業、何でもいいので、長くかかる作業をやる。その作業の途中の自分と、完成時の自分は、別人になっています。プロジェクトの記録(ノート、進捗、初期のアイデア、書きかけのコード)が残っていると、自分の変化が、逆算できます。

これらに共通しているのは、過去の自分の「結論」ではなく、「思考の過程」を残しておく、ということです。これがけっこう大事なところで、結論だけが残っていると、いまの自分は、それにひれ伏すか捨てるかしかなくなります。「過去の自分が学者になる、と決めていた」という結論が残っていても、いまの自分はそれに反応できません。一方で、「学者になりたいけれど、自分にそれだけの粘りがあるかは自信がない、ただ研究室の先輩を見ていると、自分も同じ方向に行きたいと思う、人生の意味みたいなものは、こういう仕事のなかで見えてくる気がする」と、躊躇いまで含めて残っていれば、いまの自分はその思考と対話できます。「あの頃の自分、ここの判断が甘いな」「ここはまだ合っているな」、こういう対話が起きます。対話できる素材だけが、自分の較正に使える、というのが、僕の手元の経験則です。

書きながら気づいたんですが、本書そのものも、僕にとっての「自分を測る装置」になっている気がします。書きながら、僕は自分のいまの生活設計を、もう一度言語化しています。これがいまの僕の答えです。ただ、これは数年経つと古くなるはずです。たぶん、本書のいくつかの記述は、5年後の僕には、間違って見えるか、足りなく見えます。それでいいんです。間違って見える、ということは、僕が変わった、ということで、変化を比較する素材が手元にある、ということだからです。完成形を書こうとすると、書く前から固まってしまいます。完成形を書こうとしていないからこそ、未来の自分が、この本の上に何かを書き足したり、線を引いたり、ページを破いたりできる。本書はそういう意味で、未完成のまま、あなたとあなたのこれからの自分のあいだの、共通の素材としても置いておきます。

物理的な世界は、あなたの外にあります。それは変わりません。ただ、あなたが日々生きている「見えている世界」は、あなたが作っています。それも本当です。プロローグで書いた庭の話と、「『世界』を作るのは私である」という一節は、矛盾するように見えて、僕のなかでは両方とも本当だ、というところに落ち着いています。あなたの見方が変われば、同じ世界が別の手触りで立ち上がってきます。同時に、見方を変えても、雨は降るときに降るし、霜は来るときに来る。「ぜんぶ自分の見方の問題だ」に振り切れると、外側の事情に対して冷たくなります。「ぜんぶ環境の問題だ」に振り切れると、自分の手は動かなくなります。両方とも本当だ、というところで保ったまま、自分の庭の世話を、自分のペースで続ける。本書を通じて、僕があなたに渡したかったのは、ざっくり書くと、この感覚です。

これは僕がいま読み取れていることで、5年後の僕には、別の読み方が見えているかもしれません。それも含めて、本書はここで止めます。これより先は、僕が次に書き足すか、あなたが書き足すか、です。

最終章は、ここで止めます。